"El Conde de Monte Cristo, Volumen 1" de Alexandre Dumas introduce la épica historia de Edmond Dantès, un joven marinero prometedor. Su vida da un giro trágico cuando es falsamente acusado de traición y encarcelado injustamente en el Castillo de If.
"El Conde de Monte Cristo, Volumen 1" de Alexandre Dumas introduce la épica historia de Edmond Dantès, un joven marinero prometedor. Su vida da un giro trágico cuando es falsamente acusado de traición y encarcelado injustamente en el Castillo de If
"El Conde de Monte Cristo, Volumen 1" de Alexandre Dumas introduce la épica historia de Edmond Dantès, un joven marinero prometedor. Su vida da un giro trágico cuando es falsamente acusado de traición y encarcelado injustamente en el Castillo de If
★ラテン語の讃美歌★
昨年(2023年)6月26日に帰天した家内のSophia Eirene田淵晴子(享年50歳)の1周年追悼ミサの模様です。家内の好きだったラテン語の讃美歌を2曲歌いました。
(①Adeste Fideles, ➁Cantate Domino)
※許可を得て撮影しています。
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1054年の東西教会の大分裂の最大の原因となったFilioque問題について。
歴史的にみると、キリスト教の根本的な信条(仏教の般若心経に相当)である二ケア・コンスタンティノポリス信経について、787年の第七回公会議の時点では第8節のFilioque(子からも)はありませんでした。その起源は実は8世紀のイベリア半島にありました。
711年、イスラム帝国(ウマイヤ朝)の侵略により、西ゴート王国は崩壊し、15世紀末に至るまで、イスラム王朝の占領下におかれました。この中での俗ラテン語の混乱の中でFilioqueの原型であるde Filio(子によって)という注釈が生まれました。イベリア半島・ガリア(フランス)では出発点も手段もde+被制格で置き換えられたため急速にFilioqueは広まりましたが、イタリアでは出発点(ラテン語ではex)はda,手段はdi(ラテン語ではde)の使い分けが残りました。そのため、10世紀まで、 Filioqueはローマのあるイタリアでは広まりませんでした。
しかし、ラテン語には無かった定冠詞の誕生(男性単数形はel)と前置詞+定冠詞の融合形のの普及により、da+el>dal, di+el>delとなり、調音点が接近したとこから、dal Patre et dal Filioとなり、これが俗ラテン語ではex Patre et Filioを経由してex Patre Filioqueになったものと考えられます。
★一般に侵略は被征服地の言語の破壊と混乱をもたらしますが、ウマイヤ朝によるイベリア半島侵略とジズヤの強制は、東西教会の大分裂の遠因ともなったようです。
★15世紀のバーゼル・フェラーラ・フィレンツェの公会議では、ラテン語正文において、ex Patre Filioqueを、ex Patre per Filiumとすることで仮合意しました。これは福音書の記述に一致します。ただ、「これはギリシャ語正文には適用しない」とする知恵者がいなかったため、東方では批准されず、最大の悲劇を招きました。2006年、教皇ベネディクト16世は、ギリシャ語ではFilioqueを含まないものを正文としました。
★昨年(2023年)6月26日に帰天した家内のSophia Eirene田淵晴子(享年50歳)の1周年追悼ミサ(2024/06/23)の模様です。
※許可を得て撮影しています。
☆親族代表(喪主=夫=田淵隆明)挨拶
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1054年の東西教会の大分裂の最大の原因となったFilioque問題について。
歴史的にみると、キリスト教の根本的な信条(仏教の般若心経に相当)である二ケア・コンスタンティノポリス信経について、787年の第七回公会議の時点では第8節のFilioque(子からも)はありませんでした。その起源は実は8世紀のイベリア半島にありました。
711年、イスラム帝国(ウマイヤ朝)の侵略により、西ゴート王国は崩壊し、15世紀末に至るまで、イスラム王朝の占領下におかれました。この中での俗ラテン語の混乱の中でFilioqueの原型であるde Filio(子によって)という注釈が生まれました。イベリア半島・ガリア(フランス)では出発点も手段もde+被制格で置き換えられたため急速にFilioqueは広まりましたが、イタリアでは出発点(ラテン語ではex)はda,手段はdi(ラテン語ではde)の使い分けが残りました。そのため、10世紀まで、 Filioqueはローマのあるイタリアでは広まりませんでした。
しかし、ラテン語には無かった定冠詞の誕生(男性単数形はel)と前置詞+定冠詞の融合形のの普及により、da+el>dal, di+el>delとなり、調音点が接近したとこから、dal Patre et dal Filioとなり、これが俗ラテン語ではex Patre et Filioを経由してex Patre Filioqueになったものと考えられます。
★一般に侵略は被征服地の言語の破壊と混乱をもたらしますが、ウマイヤ朝によるイベリア半島侵略とジズヤの強制は、東西教会の大分裂の遠因ともなったようです。
★15世紀のバーゼル・フェラーラ・フィレンツェの公会議では、ラテン語正文において、ex Patre Filioqueを、ex Patre per Filiumとすることで仮合意しました。これは福音書の記述に一致します。ただ、「これはギリシャ語正文には適用しない」とする知恵者がいなかったため、東方では批准されず、最大の悲劇を招きました。2006年、教皇ベネディクト16世は、ギリシャ語ではFilioqueを含まないものを正文としました。