忠犬ハチ公忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)は、日本の忠犬。大正末期から昭和初期にかけて、
東京市の渋谷駅まで飼い主の帰りを出迎えに行き、飼い主の死去後も約10年にわた
って通い続けて飼い主の帰りを待ったという逸話を残す。
犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、性別はオス。名前はハチ。ハチ公の愛称でも知られる。
ハチが飼い主を待ち続けた渋谷駅の出入り口の前にはハチの銅像が設置されており、
この「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっている。観光名所としても有名である。
ハチの飼い主は東京府豊多摩郡渋谷町大向(現:東京都渋谷区松濤一丁目)に住んで
いた、東京帝国大学の教授である上野英三郎であった。彼は大変な愛犬家であり、出
かける時には渋谷駅までハチを伴うことも多かった。しかしながらハチを飼い始めた翌
年にあたる1925年(大正14年)に上野は急死した。
上野英三郎の死後も渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、
新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
さらに、1934年(昭和9年)には渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除
幕式にはハチ自身も参列した。
ハチの銅像は第二次世界大戦中の金属供出によって破壊されたが、戦後再建され、
現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目印とな
って立像している。
ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、主人・上野は農学部
教授会会議の後に脳溢血で倒れ、急死してしまう。ハチは、この後3日間は何も食べ
なかった。同25日には故主・上野の通夜が行われたが、その日もハチは、ジョンとエス
と一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行っていたという。
その後、ハチは上野の妻である八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられたが
、人懐っこい性格から店に客が来るとすぐ飛びついてしまうため商売にならず、そのた
め浅草の高橋千吉宅へと移された。しかし、ハチの上野を慕う心は甚だしかったためか、
散歩中に渋谷へ向かって逸走するなどのことがあるほどだった。さらに、ここでもハチの
ことで、高橋と近所の住人との間でもめごとが起こり、ハチは再び渋谷の上野宅へ戻さ
れてしまう。
渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を
受けたり、子供のいたずらの対象となったりしていた。
一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長の斎藤
弘吉は1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を
新聞に寄稿した。これは『東京朝日新聞』に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、
その内容は人々の心を打った。ハチについては翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され、
さらに広く知られるようになり、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれ、かわいがられるようになる。
ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが
駅で寝泊りすることを許すようになった。ハチの晩年を写した写真では左耳が垂れて
いるが、これは生まれつきのものではない。垂れた理由として、野犬に噛み付かれた際
の後遺症、当時の飼育者が噛まれた傷口を縫う応急処置に失敗した、などの説が存在する。
上野が死去してから10年近くが経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは
渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口(現在の渋谷ストリーム駐車場
入り口付近)で死んでいるのを発見された。満11歳没。ここは渋谷駅の反対側で、普段
はハチが行かない場所であった。
ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻・八重や、富ヶ谷の
小林夫妻、駅や町内の人々など多数参列した。また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧
侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報、更には180,200円を超
える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われたという。
斎藤による述懐
ハチのことを新聞に投書した斎藤弘吉によれば、駅員や焼き鳥屋にいじめられるハチが
かわいそうなので、日本犬の会誌にこのことを書いたが、より多くの人に知ってもらうため
にと、『朝日新聞』に投書したという。斎藤は自著『日本の犬と狼』のなかで、次のように記
している。
「(ハチは)困ることにはおとなしいものだから、良い首輪や新しい胴輪をさせると直ぐ人間
に盗みとられる。(中略)また駅の小荷物室に入り込んで駅員にひっぱたかれたり、顔に墨
くろぐろといたずら書きされたり、またある時は駅員の室からハチが墨で眼鏡を書かれ八
の字髯をつけられて悠々と出て来たのに対面し、私も失笑したことを覚えている。夜にな
ると露店の親父に客の邪魔と追われたり、まるで喪家の犬のあわれな感じであった」
「なんとかハチの悲しい事情を人々に知らせてもっといたわって貰いたいものと考え、
朝日新聞に寄稿したところ、その記事が大きく取り扱われ、昭和七年十月四日付朝刊
に『いとしや老犬物語、今は世になき主人の帰りを待ちかねる七年間』という見出しに
ハチの写真入りで報道され、一躍有名になってしまった。(中略)朝日の写真班員の来
駅で駅長がびっくりしてしまい、東横線駅ともども駅員や売店の人々まで急にみな可
愛がるようになってしまった」
— 斎藤弘吉 『日本の犬と狼』 雪華社、1964年 (Wikipediaより)